2025-11-28
双曲割引で読み解く顧客の現在バイアス ― 行動につながる設計とは
BtoB 営業・マーケティング コラム
双曲割引は、行動経済学で語られる「未来よりも現在を強く優先してしまう」人の特性を表す概念です。将来に大きな価値があると理解していても、実際の行動は「今はまだいい」と先送りされることがあり、これは個人だけでなく組織の判断にも当てはまります。営業やマーケティングの現場でも、提案内容そのものの優劣より、こうした心理的な傾向が意思決定に影響している場面は少なくありません。本記事では、この双曲割引という視点から、顧客が動きやすくなる情報の設計について考えていきます。
双曲割引とは何か
人は誰しも、将来の価値を現在より軽く見てしまう傾向を持っています。従来の経済学では、この傾向は時間が経つにつれて一定の割合で価値が減っていく「指数割引」を前提として説明されてきました。しかし実験や調査では、より現実に近い形として、短い期間ほど急激に価値を割り引いてしまう「双曲割引」が広く観察されています。こうした短期の負担や利益を強く意識しやすくなる傾向は「現在バイアス」と呼ばれ、時間が入ることで判断が変わりやすくなる現象を説明する概念として、行動経済学でも広く扱われています。
行動経済学者 Laibson の研究※1 では、双曲割引の傾向が強いほど、将来の大きな利益よりも目前の小さな利益を優先しやすいことが示されています。その結果、計画したとおりに行動するために、締め切りや予約などの「自己拘束」の仕組みが求められやすくなるとされています。
また Frederick、Loewenstein、O’Donoghue による論文※2 では、双曲割引の代表的な特徴として、「時間間隔が短いほど価値の割り引きが急になる」という構造が整理されています。たとえば今日の負担と三か月後の負担を比較すると、本来同質のはずであるにもかかわらず、多くの人にとって三か月後なら軽く感じられ、「今はやらなくていい」という判断につながりやすくなります。こうした時間非一貫性の問題は、先送りや検討停滞の大きな要因になります。
さらに Loewenstein と Prelec の理論整理※3 では、双曲割引が生じる背景として、「長期的に正しい判断をしたい気持ち」と「今の負担を避けたい気持ち」が衝突する構造が指摘されています。時間が入ることで選好が揺れ動くという現象は、従来の指数割引を前提としたモデルでは説明の難しかった部分ですが、双曲割引の枠組みでその非一貫性が理解しやすくなります。
これらの知見はいずれも「個人の意思決定」を対象とした研究ですが、企業の購買判断やサービス導入の検討も、最終的には担当者や決裁者という個人が判断します。そのため、双曲割引のような現在バイアスは、組織の検討プロセスにも入り込みやすいと考えられます。本稿では、こうした双曲割引の観点から、企業の検討が停滞する構造を読み解いていきます。
【出典】
※1 Laibson, D. (1997). “Golden Eggs and Hyperbolic Discounting.” The Quarterly Journal of Economics, 112(2)
※2 Frederick, S., Loewenstein, G., & O’Donoghue, T. (2002). “Time Discounting and Time Preference.” Journal of Economic Literature, 40(2)
※3 Loewenstein, G., & Prelec, D. (1992). “Anomalies in Intertemporal Choice.” In Loewenstein, G. & Elster, J. (eds.), Choice Over Time
なぜ意思決定は「先送り」されるのか
双曲割引は、意思決定の中に生まれる時間非一貫性を説明する概念としてよく知られています。ここでは、なぜ「先送り」が起こりやすいのか、その構造を整理します。先送りは能力不足や怠慢によるものではなく、時間が入ることで判断の重みづけが変化する、ごく自然な反応として理解できます。
まず、双曲割引の研究で示されているのは、「短期の価値を強く評価し、長期の価値を軽く見る傾向」が人に広く見られるという点です。今日行う作業と三か月後に行う作業を比べると、三か月後の作業は実際より軽く見えるため、面倒な仕事や判断ほど未来に押しやられやすくなります。前出の Frederick らの論文では、時間が短いほど価値の割り引きが急になるという構造が整理されています。
次に、判断にかかる心理的な負担の大きさがあります。意思決定には情報収集、比較、判断、他部署との調整など複数の工程が伴います。これらは「今すぐやりたいこと」とは言い難く、負担の大きい作業として認識されやすい傾向があります。前出の Loewenstein と Prelec の理論整理では、こうした負担が「今避けたい気持ち」を強め、時間非一貫性の背景になることが指摘されています。
また、意思決定の場面では、「判断を誤りたくない」という気持ちが強く働くことがあります。選択肢が多いほど比較に時間がかかり、判断基準も揺らぎやすくなります。情報が増えても必ずしも判断が早まるわけではなく、むしろ「もっと調べれば、より良い判断ができるかもしれない」という気持ちが先送りを後押しする場合もあります。判断の精度を高めようとするほど、行動の開始が遅れやすいというジレンマが生まれるのです。
さらに、組織の意思決定の場合、複数の関係者が関与します。営業現場で見られる「社内で止まっている」という状況も、担当者個人の現在バイアスだけでなく、複数人のスケジュール、業務負荷、リスクの捉え方が重なった結果として生じます。これは特定の人に問題があるわけではなく、自然な構造です。個々人が「今はまだいい」と感じると、その連鎖で組織全体の判断も先延ばしされやすくなります。
このように、先送りは「やる気がない」「慎重すぎる」といった性格的な問題ではなく、時間が介在することで人の評価軸が変化する、自然な現象です。意思決定の遅れは、双曲割引による心理的な構造として理解することで、対策や改善策も検討しやすくなります。
マーケティングにおける双曲割引の影響
双曲割引の視点は、マーケティングの現場で起きている「行動が生まれない理由」を読み解くうえで欠かせません。価値の伝え方や提案の設計に影響を与えるポイントが多く、理解しておくことで施策の精度を高めることができます。
まず、マーケティングにおいては、相手が価値を理解しているにもかかわらず行動が起きない場面が多く見られます。これは内容の問題ではなく、前出の Frederick らの論文で整理されているように、短期の負担のほうが強く意識されるという心の動きが影響しています。導入や検討には多くの場合、資料確認や社内共有といった工程が伴い、これらは「今すぐ取りかかりたい作業」として認識されにくい傾向があります。
また、情報を伝える側としては、将来得られるメリットをしっかり示せば十分だと考えがちですが、受け手にとっては「今の業務を一度止める負担」が先に意識されることがあります。前出の Loewenstein と Prelec の理論整理でも、こうした「今避けたい負担」が判断を遅らせる背景になることが指摘されています。どれほど将来の価値を丁寧に説明しても、受け手が「今はまだいい」と感じてしまえば行動にはつながりにくいのです。
さらに、興味を持っている見込み顧客であっても、判断のタイミングが曖昧なままだと、優先順位は時間の経過とともに自然と下がりやすくなります。問い合わせ後に動きが止まってしまうケースや、資料請求後の検討が途切れる状況は、必ずしも提案の質が原因ではなく、時間を挟むことで評価軸が変化するという心理的な現象のほうが大きく影響します。
マーケティングにおける重要な視点は、価値の認知と行動の発生が一致しないことを前提に設計するという点です。未来のメリットを伝える施策だけでは不十分で、受け手が「今動きやすく感じる」状態をつくる工夫が求められます。具体的には、判断の手間を減らす工夫や、取りかかりやすい最初のステップを示すなど、行動の障壁を下げる発想が重要になります。
双曲割引は、こうした「行動に至らない理由」を構造的に説明する手がかりを与えます。マーケティングの実務においても、単に情報を伝えるだけではなく、相手が動きやすくなる状態をどうつくるかを考える上で、有効な視点となります。
双曲割引を踏まえた「行動を生みやすい設計」とは
双曲割引の特性を理解すると、営業やマーケティングの役割は、単に価値を伝えるだけでなく、相手が行動しやすい状態をつくることへと広がります。検討が途中で止まるのは、内容の問題だけではなく、判断に伴う負担や、時間を挟むことで評価軸が変化するという心理的な構造が関わっているためです。ここでは、その前提に立ったうえで、行動を生みやすくするための設計を整理します。
まず必要なのは、最初の入り口を軽くすることです。情報が多すぎたり、読み始める段階で工程が想像できてしまうと、前出の研究でも示されているように、短期の負担が強く意識され、行動の第一歩が遠ざかります。導入メリットや機能を一度に詳しく伝えるよりも、読み手が「とりあえず見てみよう」と思える入り口を設計し、必要な情報が段階的に自然と届く構造にするほうが検討は続きやすくなります。
次に、判断の進め方を明確にする設計が重要です。比較の軸や確認すべきポイントが曖昧だと、検討の途中で負担が増し、判断が後回しになりやすくなります。どこから比較すればよいか、何を見れば判断に必要な理解が得られるか、次のステップは何かといった導線を整えることで、「迷いながら進む」状態を避けられます。これは、相手の判断負荷を小さくするための基本的な設計です。
また、「いま検討する意味」を読み手が自然に理解できる構成も欠かせません。未来の価値は時間が入ると軽く見えやすく、前出の理論でもこの変化が指摘されています。そのため、未来だけを強調するのではなく、現在の課題や状況とのつながりを示し、「いま進める理由」が理解しやすい流れをつくることが重要です。強い訴求ではなく、読み手が自分で納得できる手触りをつくることが求められます。
さらに、検討を継続してもらうための連続性の設計も必要です。時間が空けば優先順位は自然と下がります。問い合わせ後や資料請求後に動きが止まるのは珍しくありませんが、その背景には、内容の問題だけでなく、時間を挟むことで認識が変わりやすいという心理的な特性があります。負担を感じない範囲で情報を補足したり、判断に必要な材料を適切な順序で届けることで、検討が途切れにくくなります。
総じて、双曲割引を踏まえた設計とは、相手が動きにくい構造を前提に、行動しやすい状態をどれだけ丁寧につくれるかに尽きます。情報の入り口、判断の導線、検討の連続性、いま進める理由づくり。これらを意図的に組み立てることで、価値を伝えるだけでは生まれなかった行動のきっかけが生まれやすくなります。
まとめ
双曲割引は、人が将来の価値を軽く見てしまうという特性を持ち、意思決定の現場では先送りを引き起こしやすい構造を生みます。前出の研究が示すように、短期の負担が過大に意識されることで、判断に必要な工程や情報量が重く感じられ、検討が途中で止まってしまうことがあります。これは能力や意欲の問題ではなく、時間を挟むことで評価軸が変化するごく自然な現象です。
営業やマーケティングの活動に引きつけて考えると、単に価値を伝えるだけでは不十分で、相手が動きやすい状態を整える視点が必要になります。情報の入り口を軽くすること、判断の道筋を明確にすること、現在の課題とのつながりを示すこと、検討が途切れないよう連続性を設計すること。いずれも、相手が自然に次の行動に進める状況をつくるための工夫です。
双曲割引を前提にすると、営業やマーケティングの役割は「行動を促す環境づくり」として整理できます。価値を理解してもらうだけでなく、判断にかかる負担を減らし、検討が途切れにくい状態をどう設計するか。こうした視点を取り入れることで、提案の受け取られ方や検討の進み方が変わり、実務にも反映しやすい考え方となります。








